-ある日、私は考えた。
人生というのは、いつ始まるのだろうか?それは決して生まれるときではないだろう。それでは、はじめて恋をしたときか?書物を通して、また人間関係を通して自我にめざめた時か?
あるいは、自分のなかに棲んでいる「もう一人の自分」との友情が成り立ったときか?
人生劇場という歌では、
やると決めたらどこまでやるさ
それが男の魂じゃないか
と言っている。だが人生はしばしば、男の魂よりももっとはるかなところで汽笛をならしていたりすることもあるように思われるのは、何故だろうか?-
「自分は人間なのだという自覚が芽生えた時」、それこそが人生の始まりではないかと私は思う。人は赤ちゃんの頃は、誰でも動物に近い思考や行動をする。小学校低学年くらいでもまだ野生的に、動物的に生きている。それが徐々に人間(大人)を知り、社会というものを知っていく。他の動物とは生き方が違うぞ、と。人間は感情的、本能的に生きてはいないぞ、と。
そして、思春期になると自分も彼らと同じように生きて行かねばならない存在なのだと多くが悟る。たいていは、無意識に。しかし、そこには葛藤がある。それが、反抗や非行という形で行動に表れてくるのだろう。尾崎豊の「十五の夜」。この詩をみると、そんな気がさらにしてくる。
-しゃがんでかたまり 背を向けながら
心のひとつも解りあえない大人達をにらむ-
-とにかくもう学校や家には帰りたくない
自分の存在が何なのかさえ 解らず震えている-
-大人達は心を捨てろ捨てろと言うが 俺はいやなのさ
退屈な授業が俺達の全てならば
なんてちっぽけで なんて意味のない なんて無力な 十五の夜-
-誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした 十五の夜-
人生の始まりは、人が動物として生きるのをやめ、人として生きなければいけない時だ。それが正しいのか間違っているのかもわからない。けれどそうしなければいけないと、無理矢理にでも納得させられる。そんな葛藤や不安、不満こそが思春期に皆が感じる感情なのではないだろうか。
なぜ人間にだけ、「人生」があるのだろう。人間だけが、「人生」に意味を求めている。いや、意味があってほしいと願っている。「人生」なんてものがあるから、人は人として生きていこうとしてしまうのだ。それが、自分たちを縛り付けて、生き辛くしているにも関わらず。
「しかし、人が人生に意味や意義など見出さず、動物のように本能的に生きれば、社会は成り立たなくなる。」
その通りだ。それでいいではないか。そもそも、他の動物から見て、地球全体から見て、宇宙全体から見て、人がつくる社会は必要か?むしろ邪魔だろう。人間も他の動物同様、本能的に生きた方が生態系は正常になるのではないか。他の動物たちは本能的に生きて、それで生態系が維持できているのだから、狂わせているのは人間が理性的に生きて勝手に社会をつくってしまっているからだ。
そうは言っても、人間が本能的に、野生的に生きるのはもう不可能に近い。人生に意味を見出す快楽を知ってしまっているから。結局はその快楽を求めるという、本能的な生き方を人間もしているのだ。
ある一言が、心にいつまでも残っていることがある。そしてその一言は、他の人には見向きもされないような言葉だったりする。よく観察すると、日常にはそんな名言で溢れている。一日一名言。集めていけば、それは自分だけの哲学の書になる。
Sunday, January 15, 2012
Thursday, January 12, 2012
七十五セントのブルース
-どっかへ走って ゆく汽車の
七十五セント ぶんの切符をください ね
どっかへ走って ゆく汽車の
七十五セントぶんの
切符をください ってんだ
どこへいくか なんて
知っちゃあいねえ
ただもう こっちから はなれてくんだ-
中学までの私は、いつか「そこ」から離れられる日が来ることだけを希望に生きていた。
「そこから出られたら、この現実から逃げ出せるはず。」
そう思っていたからこそ、耐えられない現実も耐えられた。けれど、
そう思ってしまったから、耐えられない現実を耐えてしまった。
耐え切って、「そこ」から離れて、汽車に乗って、
着いたところは同じところだった。
わたしは同じ現実にまた耐えなければならなかった。
いっそ壊してしまいたい。けれど壊せない。
なぜなら、それは私自身だったからだ。
冒頭の詩は、ラングストン・ヒューズの「七十五セントのブルース」。
ラングストンは、90年代初めのアフリカ系アメリカ人作家だ。白人作家が描くステレオタイプのアフリカ系アメリカ人のイメージばかりが世の中に広まっていた時代、黒人視点からブラックアメリカ文化や風俗を提示することにより、普遍的人間像を描いた。
おそらくこのブルースを歌っているのも、黒人だろう。
差別、迫害を受け、居場所がなくなったのだろうか。七十五セントだけで、汽車に乗ろうとしている。
反射的に、あるいは感情的になって切符を買い求めているのだろうか。
強がっているようにも、負けず嫌いなようにも聞こえる。
しかし、そのなんと潔いことか。
あの時の私に、七十五セントぶんの潔さがあればよかったのに。
そしたら、きっともっと早く、「そこ」はわたしの居る場所なのだと気付けたのに。
どこかに「そこ」があるんじゃない。わたしが居るところが「そこ」なのだと。
七十五セント ぶんの切符をください ね
どっかへ走って ゆく汽車の
七十五セントぶんの
切符をください ってんだ
どこへいくか なんて
知っちゃあいねえ
ただもう こっちから はなれてくんだ-
中学までの私は、いつか「そこ」から離れられる日が来ることだけを希望に生きていた。
「そこから出られたら、この現実から逃げ出せるはず。」
そう思っていたからこそ、耐えられない現実も耐えられた。けれど、
そう思ってしまったから、耐えられない現実を耐えてしまった。
耐え切って、「そこ」から離れて、汽車に乗って、
着いたところは同じところだった。
わたしは同じ現実にまた耐えなければならなかった。
いっそ壊してしまいたい。けれど壊せない。
なぜなら、それは私自身だったからだ。
冒頭の詩は、ラングストン・ヒューズの「七十五セントのブルース」。
ラングストンは、90年代初めのアフリカ系アメリカ人作家だ。白人作家が描くステレオタイプのアフリカ系アメリカ人のイメージばかりが世の中に広まっていた時代、黒人視点からブラックアメリカ文化や風俗を提示することにより、普遍的人間像を描いた。
おそらくこのブルースを歌っているのも、黒人だろう。
差別、迫害を受け、居場所がなくなったのだろうか。七十五セントだけで、汽車に乗ろうとしている。
反射的に、あるいは感情的になって切符を買い求めているのだろうか。
強がっているようにも、負けず嫌いなようにも聞こえる。
しかし、そのなんと潔いことか。
あの時の私に、七十五セントぶんの潔さがあればよかったのに。
そしたら、きっともっと早く、「そこ」はわたしの居る場所なのだと気付けたのに。
どこかに「そこ」があるんじゃない。わたしが居るところが「そこ」なのだと。
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