Friday, February 3, 2012

虫眼とアニ眼 -1-

虫眼とアニ眼
養老猛司・宮崎駿




どんな小さな虫も見つけてしまえる「虫眼」を持つ養老猛司と、世界的に優れた「アニ眼」を持つ宮崎駿の、2人のミスターチルドレンが現代の日本社会やこども達について、自由に対談する。そして会話が進むうちに、現代の隠れた問題が次々と浮き彫りになっていく。
最初に対談したのが、「もののけ姫」が社会現象化した1997年。東京大学名誉教授の養老猛司は、以前から宮崎アニメ「となりのトトロ」に出てくるメイちゃんのトトロを発見した時の顔を引き伸ばして、教授室に貼り出しているという。


養老 「ちっちゃい女の子がジーッと座って見つめている、あの目つきが実によくて、解剖をやる人はこういう目つきでなきゃダメなんだよっていう意味で。だいたいああいう目をした学生がいなくなっちゃったんです。あんなふうにモノを見られなくなっちゃった。」
宮崎 「たとえばナマコとかウニとか、得体の知れないモノに出会ったとき、気持ち悪いって逃げ出すヤツがいるでしょう。でもなかには、その気味悪いのをジーッと見てるのがいるんですよ。そういうのがいいですね。」

宮崎 「周りの人間たちを見ると、決してそう意識してるわけではないけれど、やっぱりみんな人間嫌いになっているんですね。正しくは、人類嫌いと言ったほうがいいかもしれませんが。顔見知りの人間は好きなんです。けれど、人類とか外国人と言ったとたんに「いなきゃいいのに」という感じになる。こんなにみんなが人間嫌いになってる時代はないんじゃないか。一方では、人間の命はとても尊いなんて言ってる時代で、建前と本音というのはヘンな言い方ですが、もっと底のほうに、いわゆる「うざったい気持ち」が、通奏低音のように流れている。子どもたちからして、そうじゃないかと思ったもんですから。」   
「親から、「うちの子どもはトトロが大好きで、もう一〇〇回くらい見てます」なんて手紙がくると、そのたびにこれはヤバイなあと、心底思うんですね。誕生日に一回見せればいいのにって。結局、子どもたちのことについて、何も考えてない。だって結果として、養老さんが言うところの脳化社会にぴったり適応するような脳みそ人間だけを育てようとしてるでしょう。トトロの映画を一回見ただけだったら、ドングリ拾いに行きたくなるけど、ずっと見続けたらドングリ拾いに行かないですよ。なんで、そこがわからないんだろうと思うんだけど。いっそビデオの箱に書きたいですね。「見るのは年に一回にして下さい」って(笑)」



 二人の言う子どもたちは、一体いつの頃からのことを指すのだろうか。私はそこに入っていないことを願いたいが、言われてみれば 私も長い間モノを興味深くじっと見ることをしなくなっている。世界の人口が80億だが70億だかを突破したニュースを見ても、「また増えるのか。もういいよ。」と思ってしまう。そして小さい頃、トトロのレーザーディスクを何回も見続けていた。やばい。思いっきり当てはまっている。
 確かに、人間好奇心を持つということは成長に不可欠な要素だ。最近やっと私も、メイちゃんのような目をふたたび持ち始めた所だ。以前は虫を見ると反射的に逃げていたが、今は窓に巣をつくったクモの身体を細かく観察し、虫がワナにかかってそれを食べる瞬間を見てみたいと思うようになった。変な人になっただけなのかもしれないが、以前よりそういった自然や動物のありのままを見たい、知りたいという気持ちは強くなった。
人間嫌いというのも、何の考えもなしに自然や動物に害を加える人間が嫌というだけで、人間がたくさんいようがいまいが、私はどうでもいいと思っている。少なくなれと願ったところで、何の効果もないことは知っているからだ。ペットをアクセサリー代わりにしか思ってないような女や、自然災害をどうにかこうにかできると思っている自信過剰な男などにあきれ返っているだけである。ちゃんと自然や動物の生態系を壊さず、共存していこうという謙虚な気持ちをもった人間なら、何人いても構わない。
 トトロを年一回だけ、というのは子どもにとってとても酷な決まりだ。子どもというのは好きなものは何回でも繰り返したいものだし、何回も見ることによってその世界観がインプットされていくのだと思う。現に私は、トトロのあの自然や田舎の人々の暖かさをインプットしたからこそ、外で遊ぶときはイマジネーションが刺激されていたし、トトロの世界とは逆方向に行く日本に疑問を感じられている。むしろ私は、トトロをもっと考えながら見て欲しい。きっと子どもたちはトトロを見た後山に行きたいし、ドングリ拾いに行きたいのだ。けれど周りにそういう場所がない。親が連れて行ってくれない。これじゃあまたトトロを観て欲求を解消するしかないじゃない。きっと、トトロのような森や家をつくってあげると、子ども達は喜んで遊ぶはず。やっぱり、現代の子どもが好奇心いっぱいの目をしなくなったり、人間嫌いになったり、脳化しているのは、大人のせいなのではないだろうか。



Sunday, January 15, 2012

この世は一つの劇場にすぎぬ。人間のなすところは一場の演劇なり。

-ある日、私は考えた。
 人生というのは、いつ始まるのだろうか?それは決して生まれるときではないだろう。それでは、はじめて恋をしたときか?書物を通して、また人間関係を通して自我にめざめた時か?
 あるいは、自分のなかに棲んでいる「もう一人の自分」との友情が成り立ったときか?
 人生劇場という歌では、
 やると決めたらどこまでやるさ
 それが男の魂じゃないか
と言っている。だが人生はしばしば、男の魂よりももっとはるかなところで汽笛をならしていたりすることもあるように思われるのは、何故だろうか?-


 「自分は人間なのだという自覚が芽生えた時」、それこそが人生の始まりではないかと私は思う。人は赤ちゃんの頃は、誰でも動物に近い思考や行動をする。小学校低学年くらいでもまだ野生的に、動物的に生きている。それが徐々に人間(大人)を知り、社会というものを知っていく。他の動物とは生き方が違うぞ、と。人間は感情的、本能的に生きてはいないぞ、と。
 そして、思春期になると自分も彼らと同じように生きて行かねばならない存在なのだと多くが悟る。たいていは、無意識に。しかし、そこには葛藤がある。それが、反抗や非行という形で行動に表れてくるのだろう。尾崎豊の「十五の夜」。この詩をみると、そんな気がさらにしてくる。

-しゃがんでかたまり 背を向けながら
 心のひとつも解りあえない大人達をにらむ-


-とにかくもう学校や家には帰りたくない
 自分の存在が何なのかさえ 解らず震えている-


-大人達は心を捨てろ捨てろと言うが 俺はいやなのさ
 退屈な授業が俺達の全てならば
 なんてちっぽけで なんて意味のない なんて無力な 十五の夜-


-誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に
 自由になれた気がした 十五の夜-

 人生の始まりは、人が動物として生きるのをやめ、人として生きなければいけない時だ。それが正しいのか間違っているのかもわからない。けれどそうしなければいけないと、無理矢理にでも納得させられる。そんな葛藤や不安、不満こそが思春期に皆が感じる感情なのではないだろうか。   

 なぜ人間にだけ、「人生」があるのだろう。人間だけが、「人生」に意味を求めている。いや、意味があってほしいと願っている。「人生」なんてものがあるから、人は人として生きていこうとしてしまうのだ。それが、自分たちを縛り付けて、生き辛くしているにも関わらず。 
「しかし、人が人生に意味や意義など見出さず、動物のように本能的に生きれば、社会は成り立たなくなる。」
 その通りだ。それでいいではないか。そもそも、他の動物から見て、地球全体から見て、宇宙全体から見て、人がつくる社会は必要か?むしろ邪魔だろう。人間も他の動物同様、本能的に生きた方が生態系は正常になるのではないか。他の動物たちは本能的に生きて、それで生態系が維持できているのだから、狂わせているのは人間が理性的に生きて勝手に社会をつくってしまっているからだ。

 そうは言っても、人間が本能的に、野生的に生きるのはもう不可能に近い。人生に意味を見出す快楽を知ってしまっているから。結局はその快楽を求めるという、本能的な生き方を人間もしているのだ。








Thursday, January 12, 2012

七十五セントのブルース

-どっかへ走って ゆく汽車の
七十五セント ぶんの切符をください ね
どっかへ走って ゆく汽車の
七十五セントぶんの
切符をください ってんだ


どこへいくか なんて
知っちゃあいねえ
ただもう こっちから はなれてくんだ-


中学までの私は、いつか「そこ」から離れられる日が来ることだけを希望に生きていた。
「そこから出られたら、この現実から逃げ出せるはず。」
そう思っていたからこそ、耐えられない現実も耐えられた。けれど、
そう思ってしまったから、耐えられない現実を耐えてしまった。

耐え切って、「そこ」から離れて、汽車に乗って、
着いたところは同じところだった。
わたしは同じ現実にまた耐えなければならなかった。
いっそ壊してしまいたい。けれど壊せない。
なぜなら、それは私自身だったからだ。


冒頭の詩は、ラングストン・ヒューズの「七十五セントのブルース」。
ラングストンは、90年代初めのアフリカ系アメリカ人作家だ。白人作家が描くステレオタイプのアフリカ系アメリカ人のイメージばかりが世の中に広まっていた時代、黒人視点からブラックアメリカ文化や風俗を提示することにより、普遍的人間像を描いた。
おそらくこのブルースを歌っているのも、黒人だろう。
差別、迫害を受け、居場所がなくなったのだろうか。七十五セントだけで、汽車に乗ろうとしている。
反射的に、あるいは感情的になって切符を買い求めているのだろうか。
強がっているようにも、負けず嫌いなようにも聞こえる。
しかし、そのなんと潔いことか。

あの時の私に、七十五セントぶんの潔さがあればよかったのに。
そしたら、きっともっと早く、「そこ」はわたしの居る場所なのだと気付けたのに。
どこかに「そこ」があるんじゃない。わたしが居るところが「そこ」なのだと。