Friday, September 30, 2011

名台詞は、どこにでも転がっている

神経を言葉に集中させていると、日常生活の様々な場面で名言に出会える、とは前回のブログで少し話した。それは本当で、何も名言集など買わなくても意識さえ集中すれば、何気ない会話や映画のワンシーン、トイレの落書きにまで名言や名台詞は転がっているものなのだ。

先日、ダイエットのために通っているプールの更衣室で小学校低学年くらいの女の子二人がおしゃべりをしているのを、自分も着替えながら何気なく聞いていた。そしてその一人の子が放った一言に、私はドキッとした。
「死ぬって一番大切なことなんだよ。」
無垢な女の子の口からまさかこんな深い意味合いを含んだ台詞がが出てくるとは思わなかった。するとその子はすぐ、
「あっ、間違った。命だ。命が一番大切なんだ。」
と言い直した。ああ、やっぱりそうか、とほっとしながらもちょっと残念な気持ちにもなった。彼女達はゲームの「たまごっち」の話をしており、その中のキャラクターが「私は命よりもドライヤーが大事なのよ」と言ったらしい。女の子二人は、その言葉に対して
「命が一番大事なんだよ。ドライヤーの方が大事なんて、バカだよね~。」
と言っていたのだ。子どもに命よりドライヤーが大事などと言うキャラクターの存在に疑問を感じながらも、なんともほほえましい風景だと見ていた。そして、女の子の言葉、「死が一番大事」というのは、間違いとはいえ名台詞になるだろう。人間いつかは死ぬ。けれどそれは、一生懸命生きるための大事な要素なのだ。それなのに、その終わりを意識せずのうのうと生きている自分にその一言は突き刺さった。死を意識していないわけではないが、少なくともあの時、プールでのんびり着替えをしていた自分にはその意識はなかったのだ。たかが着替えで死を意識する必要はないのだが、あの女の子のおかげで確かにその後、自分は死を意識して生きなければと、自分の気を引き締めるきっかけになったのは事実だ。こんな幼い子達の会話からでも、名言は生まれるものなのだなぁ、と改めて言葉探しの範囲の広さ、醍醐味を知った。

寺山修司『ポケットに名言を』の第2章に出てくる名台詞でも、生と死に関して深い意味を持ったものがある。フェデリコ・フェリーニの映画、『甘い生活』の中でスタイナー(アラン・キュイ)が言った台詞だ。

「ときどき、夜中にこの静かさが私にのしかかってくる。平和ってなんて恐ろしいんだろう。」

この一言だけでは一体何の意味を持つのかわからないが、その後の寺山修司の解説で思わず考えさせられる言葉になる。

スタイナーは幸福なパパであり、いつもサロンに友人達を集めて雑談している。外はひどい嵐なのに、マンション・アパートの中のスタイナーの部屋だけは平穏で無事である。友人のイリスの「塔高すぎて地上の声とどかず・・・」という詩の朗読の後でスタイナーがテープレコーダーに吹き込んだ自然の声を流す。それは鳥の声と森の音である。メカニズムにとりかこまれて、何年もほんものの鳥の声を聞いたことのない都会人たちは、しんとなってその音に耳をすます。-略-翌日、スタイナーはピストル二発で子どもを殺し、その後で自殺する。その理由は誰にもわからない、と刑事は言うが、それが「平和」のせいだということが観客にはわかるのである。

スタイナーの名台詞は、スタイナー達が鳥の声に耳をすませている時に発せられたものだ。この台詞の後、彼は平和を捨て、死を選ぶ。この映画がいつの時代の設定なのかはわからないが、なんだか近い未来の私達のように見えないだろうか。戦争反対を叫び、急激な科学や技術の進歩を遂げ、やっと手に入れたはずの「平和」な世の中が、最も生の喜びを感じられない世の中だった。なんとも皮肉な結末だ。すべてが平穏無事な毎日の中で、唯一の出口は「死」だけ。もしこの「死」がなかったら、スタイナーに残された道は自身が壊れてしまうしかない。ここでも私は、やはり生を充実させるためには死が必要なのだという事に気付くのだ。

平和であることだけが良い人生を送る秘訣ではないと、この映画で認識できたが、ではどうすれば死を自ら選ぶことなく、自分の人生を充実させることができるのだろうか。これにも寺山修司はある台詞と一人の娼婦によって一つの道を提示してくれている。

「昔、パリ音楽院の学生だったの。一流のピアニストを目指して・・・ショパン・・・ドビッシー。初めてのリサイタルの夜、ピアノの蓋が手に落ちてきて、指が三本だめになって・・・夢が壊れたわ。あとは私と、この犬さえ食べていくのに、やっとでした。」

これは映画『あなただけ今晩は』の台詞だ。なんとも不幸な女性のエピソードか、と思った。すると・・・

この涙のセリフ。実は真っ赤な嘘なのである。シャリー・マクレーン演じるところの娼婦イルマは、こんな口からでまかせを言っては男から札束を巻き上げる。また、その舌の根もかわかぬうちに今度は-略-他の男から札束を巻き上げる。そのくせ、すぐに自分のついたウソをけろりと忘れてしまうというあざやかさである。「どうせ私をだますなら、死ぬまでだましてほしかった」と歌うわが国のヒロインの執念深さにくらべ、私はイルマのあっさりした性格がとても好きであった。-略-わが国では、売春婦というとすぐに「人身売買」のように暗いイメージを持つ向きがあるが、イルマには「月を眺めて目に涙」式の悲惨さが少しもない。

人生、楽しんだもの勝ち。どんな人生も、幸か不幸かは本人次第なのだ。娼婦という人生を潔く生きるイルマに、私もうらやましさを感じる。逆に女性に限らず、被害妄想が強く人生の幸、不幸は周りの状況に左右せられると考える日本人は多い。私も最近不満を口にすることが多い。もっと潔く人生を生きていないと、死が近づいた時に後悔するかもしれない。生き方について真剣に考えないといけないと、今日の名言を振り返って一人反省した秋の夜長だった。



Sunday, September 18, 2011

言葉を友人に持とう

寺山修司の『ポケットに名言を』という本を開くと、いきなり出会ってしまった。もうそこには、拾いきれないほどの名言が溢れていた。
「言葉を友人に持とう」
この本の第一章のタイトルである。私にとっては、このタイトルさえもすでに名言だ。このたった一言で、それまで自分が持っていた言葉の概念が崩れていくのがわかった。その章で寺山修司は、「言葉とは何か」について語っている。今まで考えたこともないようなテーマなのに、私はそれでも「確かにそうだ。」と共感してしまい、ついには「言葉ともっと親しくなりたい。」と思い始めてしまった。

-言葉を友人に持ちたいと思うことがある。 それは、旅路の途中でじぶんがたった一人だと言うことに気がついた時にである。 たしかに言葉の肩をたたくことはできないし、言葉と握手することもできない。だが、言葉に言いようのない、旧友のなつかしさがあるものである。-

寺山修司は「言葉の錬金術師」と言われるほど言葉巧みな詩人であり、作家であり、歌人であり映画監督でもあり実に多才な人物である。代表作は『書を捨てよ、町へ出よう』や『田園に死す』などだろうか。それら有名な作品を読んだことはないが、それでもこの『ポケットに名言を』を読むだけでも、言葉の錬金術師の術の素晴らしさはわかる。彼の言葉は単純でわかりやすく、頭の中でもやもやとしていたものがすっきり解消されるような効能があるみたいだ。はっきりとそう口にするわけでもないのに、はっきりと口にするよりも伝わる。少し懐かしい、けれど新しい彼の文章を読んでいると、まるで白黒映画を観ているような、それとも過去の偉人たちの哲学的な詩集を読んでいるかのような、昔懐かしい気持ちがじわじわとこみ上げてくる。

私がこの本をいつ買ったのかはよく覚えていない。少なくとも5年以上前で、私が大学に入学したての頃だと思う。買うきっかけも、寺山修司が好きだったとか、そういうのではなく、ただ表紙のかわいさと本の薄さに読みやすさを感じたからだった気がする。言葉に対して何の愛着も友情もなく、言葉は意志を伝える手段であり道具であるというイメージしか私は持っていなかった。だから、言葉に対して感情を持ち、友人になりたいという彼の発想は衝撃で、その感性をうらやましいと思った。そして、いつかは彼のように言葉で人の心にチクリと針を刺したり、なつかしい気持ちにさせたり、軽快な気分にさせてみたい。多くの偉人たちが残す名言というものを、私も人生で一言くらいは残しておきたい、そう思った。その第一歩がこのブログである。彼の言葉を借りて言えば、こうだ。

-私は言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、人の胸の中をぐさりと一突きするくらいは朝めし前でなければならないな、と思った。だが、同時に言葉は薬でなければならない。さまざまの心の傷手を癒すための薬に。中略 どんな深い裏切りにあったあとでも、その一言によってなぐさむような言葉。-

彼のような文章力が欲しいと言いながら、さっそく彼の言葉を引用させてもらってしまっている私。まだまだ道は遠い。ましてや名言なんて残せるのだろうか。そもそも、名言とは何なのか。それを解説するのにも、またまた彼の言葉を引用させてもらおう。

-時には、言葉は思い出に過ぎない。だが、ときには言葉は世界全部の重さと釣合うこともあるだろう。そして、そんな言葉こそが「名言」ということになるのである。-

この『ポケットに名言を』という本は、寺山修司が集めた名言集である。彼は、名言というのはその古さ新しさは関係なく、年老いた言葉を大切にするのではなくむしろその逆だと述べている。新しい言葉には、現実を変革する可能性がはらまれているからだというのだ。私もこの本を読んでから、日常の中で名言や何やら不思議な魅力を持つ言葉を集めるようになった。神経を言葉に集中させていると、何気ない会話や本の一節から、自分の価値観を180度変えてしまうような名言に出会えたり、自分の今まで持っていた価値観をさらに磨く言葉と偶然出くわすことがあるのだ。そしてそれを書き溜め、気分が落ち込んだ時や悩んだ時にこうした言葉たちから何度も勇気をもらっている。このブログを書こうと思ったのも、そうして集めた名言を誰かが見て、少しでも自分と同じように明るい気持ちになってくれたり、新しい発見をしたりしてくれたらいいなと思ったからだ。

しかしこの第一章の最後で彼は、 本当に今必要なのは名言ではないと言う。それなのに彼は自身の古いノートを引っ張り出し、集めた名言を本にした。その理由を、彼は以下のように述べている。

-まさに、ブレヒトの「英雄論」をなぞれば「名言のない時代は不幸だが、名言を必要とする時代は、もっと不幸だ」からである。 そして、今こそそんな時代なのである。-

近年、スポーツ界や経済界などで栄光や成功を手にした人達の名言集、人生の教訓本などが売れているらしい。私を始め、現代の多くの人はそうした名言に勇気をもらい、生きている。果たして、私たちが名言など必要としなくなる時代はいつ来るのだろうか。